発言の自由

「発言の自由と引き替えに、突っ込まれるリスクを負う」


という前提がある。
何を言ってもいい。
ただし、発言が事実と異なる場合は突っ込みを受ける可能性もある。
もちろん、突っ込むのも自由だ。


発言の自由と突っ込みの自由がぶつかり合う。
それは議論だ。
白熱したバトルだ。
バトルの末に何かしらの有意義なものが見つかれば大もうけ。
議論によって見えてきた種々の問題点やすべきことなど。


そして議論は頭を使う。
常に1対1ではなく、時にはグループ同士の争いにもなる。
そこからゲームは複雑を帯びる。


一見合理的に見える。
しかし人間も複雑で、「なんで突っ込むの?」って言う人もいる。
これは文化の衝突だ。


「議論」と「感情(あるいは雰囲気)」は対になっている。
議論を絶対視する人間は、しない人間と住む文化圏が違う。
モヒカン族は、説得の一切に聞く耳を持たない。
話が通じない。
「ひとそれぞれでしょ」ですませてしまう。


これは議論の絶対性が失われた訳ではない。
「正しい教」の非信者の存在があるだけだ。
彼らの啓蒙・引き込みに力を注ぐか、
それとも存在してないものとして考えるか、
その加減・切り替えの出来る人間だけが両文化を渡り歩ける。
もちろん、文化の選択も自由だ。


互いに互いを信じ合わない、
相容れないものだと感じている。
文化闘争は自由だ。
徹底した啓蒙だ。
ネットは「正しい教」信者によって生み出された。
黎明期、ネットは「正しい教」信者で満たされていた。


現在、大量の「感情教」信者が紛れ込み、
それは多数派となった。
彼らがネットをする自由はある。
何を言っても自由だ。


バトルだ。
バトルの自由だ。
正義の追求だ。
話して分かる相手には啓蒙だ。
分からない相手にも啓蒙だ。
全人類啓蒙だ。